施設における虐待の一面を超簡略に云うと「逃げ場が無い(他に行くとこが無い)利用者側の弱みと介護側(職員)の強みで成立している」的ニュアンスです。
以前から私が思考していた事と合致します。
これは私の活動分野においても散見されます。介護施設でなくとも病院、特に精神系ではこの傾向を強く感じます。
強い側と云うと悪者みたいですが、実はそこにも解決すべき問題があるようです。これも私は思考していました。虐待が施設に限らず在宅の例も多いそうです。これも虐待行使側(強者)だけに問題があるのではなく、虐待側の地域孤立等の課題解決が望まれます。
虐待と喧嘩の差異についてですが、これは個人情報その他の障壁を一掃し介入すべきか否かの判断材料ともなり、何処まで放置(傍観・様子見)で何処からは介入推奨なのか分かりやすく説明すると、攻撃されている側に反撃の余力がある場合、それは喧嘩の範囲である。強弱関係が確立していて、それでも未だ攻撃が続くようなら歯止めが効かなくなり虐待へと推移する。少し早いが、この時点で介入した方が被害は小さく済む。
虐待防止の法的位置付けについて、「保護」ではなく「支援」であり、その違いは当事者が主体性を持っているか否かでありましょう。これは虐待問題だけでなく、あらゆる支援で言える事です。支援者は当事者そっちのけで行政や相手と話してはならず、あくまでも当事者の意向に沿った動きをしなければなりません。
丸投げで完全依存(依頼)してくる人も中には居ますが、私たち支援側は解決方法の選択肢提示や実行動を担っても、決定を下すのは当事者であって欲しい、そうでないと当事者は経験を積まず何も学べないからです。これは極論であって、全く判断も実行動も出来ない人への支援では、必ずしもそうは行かない事もある事は追記しておきたいと存じます。
虐待防止法の成立は国(厚労省等)ではなく議員立法=市民の声に押されたものです。弱肉強食の世知辛い日本になりつつある今でも、まだ捨てたものでは無いのでしょうか。
高齢者の社会的地位後退については、言わずもがな、新自由主義が台頭しているからに間違いは無いのでした。日本は先進国では無いのです。ヨーロッパの20年後追いです。